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2013年5月5日 / weblacs

第6号編集後記

 特集号を出すに当たって、内容を具体的に表すキャッチコピー(副題)はないかといろいろと考えた。「クレオール・スペクトル」「クレオール・ルネッサンス」「クレオール・ポリティクス」。カリブ海=「クレオール」というのではいかにも芸がないので止めた。しかし、今回の寄稿文に共通するのはやはり「クレオール」をめぐる広義のポリティクスである。『クレオール主義』(今福龍太)が出版されてから早8 年である。そこに示されたクレオールは権力を巧みにすり抜けていく個々人の軽妙さと権力には無頓着なバイタリティであったような気がする。ところが、特集号の各論文はクレオールを執拗に権力に連接しようとしているかに見える。「クレオール主義」が政治的にナイーヴ過ぎることへの反省の意味が込められているのかもしれない。あるいは、「クレオール主義」はエッセー的な思考や文章には向いていても、論文という権力を志向する思考様式には向いていないことの現われなのかもしれない。だが、「権力を志向するクレオール」は果たして誰の実践としてのポリティクスなのであろうか。

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 「ここでは法律学者の面々に用はない。文学に注射器やメスで近づこうとする手合いも願いさげだ。魂を見透かすために肉体を金縛りにする生体解剖まがいの考えにも用はない。目立たぬようにあたりを歩くか、そっと通り抜けるがよい。慎ましさをもとう。きみの優しさを広げよう。」(パトリック・シャモワゾー+ラファエル・コンフィアン著『クレオールとは何か』[西谷修訳、1995 年、平凡社] 21 頁)「『クレオール』の自己表明とは・・・西欧的歴史を追認し、みずからをその産物と認めることによって、その歴史の原理を解体させる可能性を秘めたものなのだ。・・・自分の力を超えた過去の運命を、そして自分をこの世にもたらした苛酷な過去を、自分のものとして担いきることでその意味を転換すること、そういう力が『クレオール』の自己主張にはこもっている」とは、上掲書を翻訳した西谷氏の「解説」の一節(300-301 頁)である。

 こうした「大学の決まりに身を固めとかく牢屋に入れたがる研究者」(同掲書、21 頁)の援護射撃は、果たして「クレオール」達自身による自己主張と共鳴するものなのだろうか。仮にそうであるとしても、それによって研究者は彼らと同じ語り部として「クレオール」たちに受け入れられるのであろうか。また、研究者は「クレオール」たることを希望しているのであろうか。むしろ、カリブ的特殊性としての「クレオール」性を「クレオール」たちから奪い去り、自らを相対化するための普遍的な言説として「クレオール」を語ろうとしているのではないのか。カリブを愛する研究者はそうではないにしても、カリブにさしたる思い入れもない読者はそうした読み方をしてしまうのではないだろうか。だとするならば、今日の「クレオール」論には植民地主義的な知識のヒエラルキーを感ぜずにはいられない。

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 普段は論文を書くだけで、組版と写植はすべて人にやってもらってきた。しかも、校正の段階で赤を入れるどころか、大量に書き換える癖がある。今回初めて、組版の作業を自分でやるはめになったのだが、校正の段階で文章が書き換えられることは意外と大した苦痛ではなかった。大変だったのは、むしろ組版の作業中に様々な「ミス」を見つけたときに、それを修正してしまいたくなる衝動をいかに抑えるかだった。また、世の中には、引用文献の書き方一つ取ってみても、あまりに様々なスタイルがあることに驚くとともに呆れ果ててしまった。読みやすさを追求した結果なのだろうが、それもひとえにレイアウトも含めたスタイルに関する編集者の美的感覚次第であるようだ。自分の美的感覚がおかしくないことを願うばかりだ。(吉田栄人)

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