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2013年5月7日 / weblacs

第5号編集後記

 論文には少なからず各著者の個人史の一端が透けて見える。そういった観点から読むと、他人の論文が議論の内容とは別におもしろく読める。しかし、現実には、論文には個人的なエピソードが記されることはほどんどない。それゆえ、論文の著者を直接知っている場合は別として、通常の論文からその人の個人史を読み取ることは難しくなる。論文とは普遍性を追究するための言説であり、そこからは個人的な言説を排除しなければならないと言ってしまえば、身も蓋もない。だが、誰にでも理解できる個人史としての「論文」があってもいいのではないだろうか。もちろん、その「論文」が分類上はエッセーやオピニオンの形をとっても構わない。要は、そういった「論文」が掲載できるような雑誌が存在することである。
 本誌は創刊から5年目を迎えた。最初は、オフィシャルな形式を取りながらも身内の間で交わされる暴露話みたいなものだったかもしれない。だが、最終的な評価は読者諸氏に委ねるしかないが、他誌で採用されることはないであろう、しかし情報や意見としては捨てがたい内容をもった「論文」が著者の個人史の形を取りながら語られてきたといえるのではないだろうか。もちろん、そのことは必ずしも本誌が学術雑誌としての要件を満たしていないことを意味するものではない。むしろ、本誌では個人史的な性格を帯びた「論文」を敢えて排除しないし、また個人史の共有を通じたラテンアメリカ・カリブ地域に関する学術研究のレベル・アップを期待している。そんな学術誌雑誌を作ることはできないものだろうか。

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